『幸福王子』を観劇して
あまりにも重たすぎる物語を受け止めようと言葉を並べてみたけど、無理でした(笑)
そんな一部始終をご覧ください。
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『幸福王子』という物語、どうしてオスカーワイルドはタイトルに『幸福』なんてつけたんでしょうね。
ゼロサム思考という観点から王子の人生を考えると、まず生前は圧倒的勝者です。敗者がいることさえ知らない勝者。そして銅像としての500年は敗者。しかし、敗者と勝者がいる世の中について気付いているのに何も出来ない無力さに苦しめられるだけで、現実に苦しむ敗者とは別種かつ贅沢な悩み。そして、心臓が割れた本当の死後は結局勝者。ただ、多くの敗者がいて救おうにもあまりにも無力な自分を知ってしまった上での勝者。それって勝者なのかと言われると難しいけれど、敗者にうらやまれる立場という意味ではきっと勝者。
何が幸福で、なぜ世の中は不平等なのか、解決策は机上の空論しかなく、結局無力な自分を嘆くしかできない絶望。
芝居の最後に王子が『馬鹿か』と叫びたくなるのも無理はない。無力に馬鹿かと叫ぶしかできない苦しみ、敗者がいると知ってしまった勝者の苦しみ。
知らぬが仏、では無いけれど、知らなければ気付かなければ幸せだったように思える。
きっと物語におけるツバメが作品に触れる私たちのような立ち位置で、ゼロサムゲームについて知ってしまい、平等な引き分けにもがきたくなり(ツバメは実際に王と共にもがき)、そして無力なことに気付いて絶望する。
絶望で終わる物語のタイトルが『幸福王子』ってトラウマになるレベル(笑)
話は変わるけれど、小学生の頃に道徳の教科書に『幸福王子』の一節が載っていた。もちろん絶望のラストではなく、自分の身につけている宝石をツバメに貧しい人の元へ届けさせる部分。
そりゃその部分だけを取り出せば道徳的な教訓があるだろうけど、全編を読めばこの行動だって解釈が変わるし、正直小学生には重すぎる。
そして、この1部だけを取り上げる、という行為がある意味でゼロサムの勝者のように思える、意味深。いや、文科省にそんな意図がないのは重々承知です。当時の私は『ファンタジックなお話(銅像とツバメが会話する話)なんかで、現実に役立つ道徳心養えるかよ…』なんてひねくれられてた、結末を知らなかった当時の私は幸せだったんだな…。
幸せがなんなのかとか、自分がゼロサムのどちらにいるのかとか、考えずにいられる人が真の幸福なのかもな…と思いました。そう考えると『幸福王子』を知ってしまった人はみな不幸なのか。なんという皮肉。