ゆかりんちょのブログ

観劇が趣味のジャニオタが気が向いた時だけ書くブログです。

スケリグの存在〜肩胛骨は翼のなごりを読んで〜

文ちゃんこと浜中文一主演舞台『スケリグ』の原作【肩胛骨は翼のなごり】という小説を、文学部国文学科1年生が、自分なりに解釈してみました。

 

きっかけは基礎ゼミナールという、高校で言うところのホームルーム的時間に何かしらのプレゼンをしろ、と言われたことです。

 

プレゼンのテーマを決める時期、ちょうど再演された『スケリグ』の千秋楽を見てきたばかりだった私は、嬉々として「スケリグの存在を読み解く」というテーマを設定しました。

 

それが2ヶ月後、自分の首を絞めるなんて思いもせずに…

 

と、前置きが長くなりましたが、たかが15分のプレゼンのためにめちゃくちゃ頑張ったので、せっかくだから公の場に記録しておこうと思います(笑)

 

f:id:yk5240rin:20201127100011j:image※今年の私的初日の写真、特に意味はありません🤣

 

☆あらすじ(ご存知の方は飛ばしてください)☆

 

「肩胛骨は翼のなごり」は、主人公のマイケルと隣の家に住むミナ、そしてマイケルの家のガレージにいた正体不明の生き物スケリグの物語です。マイケルは両親と生まれたばかりで心臓の弱い妹と共に引っ越してきた家のガレージで彼に出会います。彼は埃まみれで痩せ衰え、とてもみすぼらしい身なりをしていました。話しかけてもぶっきらぼうでたいていの質問にはまともに答えない無気力な彼の背中には、しなやかで弾力のある、折りたたまれた細い腕のようなものがあることにマイケルは気付きました。そんな不思議な存在を、マイケルは学校の友人ではなく、最近出会ったばかりの隣の家のミナにだけ教えます。ミナは学校へ行かずにいる、少し変わった女の子です。彼女とその母親は、学校は子供の自然な好奇心や創造性、知性を抑圧すると考えています。そんなミナとマイケルが二人で彼に会いに行くようになると、ずっとかたくなだった彼が少しずつ心を開いてくれるようになり、彼の名がスケリグであること、スケリグの背中には翼があることが明らかになります。それらと時を同じくして心臓の弱い妹がまた体調を崩して入院し、心臓の手術をすることが決まりました。妹のことを心配する気持ちと妹中心で回る生活、妹を心配するあまりいら立つ両親、学校に通っていないミナのことを馬鹿にする学校の友人にストレスを感じるマイケルは、思わずミナにひどい態度をとってしまったり、ふらっとどこかに行ってしまったスケリグにショックを受けて気を失ったりしました。幸い、妹の手術は成功し、スケリグも帰ってきて、平和な日常が戻ってきました。なんと、スケリグは入院しているマイケルの妹のもとへ行っていたのです。スケリグは最後にミナとマイケルを連れて空中散歩をした後、三枚の羽根とありがとうというメッセージを残して姿を消しました。

 

*☼*――本論ここから――*☼*

 

スケリグという不可思議な存在に関して、

①なぜ、マイケルには開かなかった心をミナが来るようになってから開いたのか

②マイケルとミナを空中散歩に連れ出したのはなぜか

という2つの疑問点から読み解いていきます。

 

まず1つ目の疑問を解くヒントとして私はひとつのシーンをあげたいと思います。それはミナが庭で鳥の骨格を模写するシーンです。

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 本は鳥の骨格のページが開いてあった。ミナはそれをスケッチブックに写しとっていたのだ。

「理科の勉強?」ぼくは訊いた。

 ミナは笑った。「学校教育がどんなにあんたを損なっているか、よくわかるわね。あたしは絵を描き、色を塗り、本を読み、観察しているところ。お陽さまと空気を肌で感じとっているところ。ブラックバードの声に聞きいっているところ。じぶんのこころをひらいているところ。」(以下略)

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このシーンからミナの感受性の豊かさと、マイケルの視野の狭さが分かるかと思います。また上記のシーン以外にも、様々な場面の些細なことからミナが自由な発想を持っていることが読み取れます。この発想力の違いがスケリグの心を動かせるかどうかの差になったのでしょう。

 

2つ目の空中散歩の理由は、3人が2回行った空中散歩のうち、1度目にヒントがあります。1度目の空中散歩の後、スケリグは2人に「今夜のこと、忘れないで」と言います。

 

突然ですが、もしも皆さんに幼い頃空中散歩に行った記憶があったら、その記憶をどうやって受け止めますか?印象的な夢を今もまだ覚えているだけ、本や映画のワンシーンを自分の経験だと思い違いしているだけ、などと自分が今持っている知識・常識に沿って納得がいくように解釈するのではないでしょうか。しかしそうではなく、スケリグはこの経験を確かにあった出来事として持っていてほしいのです。例えば、人形のことをまるで本物の友人のように扱っていたことも、それはごっこ遊びなんかじゃなくて、確かにその人形が友人だったのです。

 

幼い頃の無邪気さを大切にしていてほしい、失ってしまったとしても自分が持っていた無邪気さを否定しないでほしい、というのがスケリグの願いでは無いでしょうか。

 

そして、このスケリグという存在は、8年間教員をしていた作者デイヴィッド・アーモンドなりの、学校教育に対する思いと子供たちへの願いの表れなのではないでしょうか…